私の【★5】本 | 人生の意味とは? サマセット・モーム「人間の絆」中野好夫訳

私の【★5】本

作者による自伝的長編

 本書「人間の絆」、原題”Of Human Bondageは、「月と六ペンス」でよく知られるイギリスの作家サマセット・モームによって1915年に発表された。

 日本語訳の文庫版にして上下巻、1,300ページ超の長編であり、主人公フィリップの幼年期から青年期(ほぼ三十歳にさしかかるころ)までを時系列に沿って描いている。

 幼くして両親を亡くし、生まれつきの障がいを抱えているなど、フィリップの半生および人物像には、相当程度、モーム自身のそれが重ねられている。本書のあとがきで指摘されているが、事実と異なる部分は多くとも、精神的な描写、記述においては、モームの自伝的小説と読むのが自然ということになる。

 とはいえ、その点を強く意識する必要はない。ひとりの青年が悩み傷つき、失敗を繰り返しながら、生まれてきた意味を追い求め、成長してゆくビルドゥングスロマーン(教養小説、自己形成小説)として純粋に読むことができる。

 そして本書は、人生における挫折を知る人にこそきっと、痛みを伴う読書体験を授けてくれるはずだ。それはまた、傷口のありかをそっと示しながら、鎮痛薬を塗ってくれる手のようなものでもある。

 実際、途中まではフィリップの堪え性のなさやら学習しない様子やらに辟易しながら読み進めていた私であるが、下巻の後半に至ったときには、こう思っていた。

 なぜ、私の精神的な自伝が、ここに書かれているのか? 

 そしてまた、なぜこの小説は、こんなにも優しい手つきをしているのか? と。

上下巻あらすじ

幼くして両親を失い、牧師である叔父に引き取られたフィリップ。叔母の不器用な愛を受けつつも、生まれつきの足の奇形(蝦足、おそらく先天性内反足)のため、人目を気にし、劣等感を抱えた少年に育つ。将来は聖職者になるべくキングズ・スクールの寮へ入れられるが、燃えるようだった信仰心もいつしか失われる。学校を辞めたフィリップはドイツへ、ロンドンへ、そして絵画を学びにフランス・パリへと渡るが、行く先々でも自身の運命を見出すことはできない。やがて、亡き父のように医師となる道を選び、医学校へ通いはじめたフィリップは、レストランに勤めるミルドレッドという女に激しい恋心を抱くようになる。(上巻)
ミルドレッドの虜となり、数々の冷たい仕打ちにも耐え続けるフィリップ。だが彼女は去ってゆき、フィリップは医学の勉強を続ける中で、アセルニーという男とその家族に巡り合う。穏やかな日々が続いていたが、男に捨てられて戻ってきたミルドレッドに、フィリップの生活は再びかき乱される。そんな中、戦争と不況の中で、両親の遺産を投じた株が大損失を計上し、フィリップは医学校を離れて就職口を求め奔走する。どうにか百貨店の案内係に就いた彼は、惨めだがそれなりに穏やかな生活を手にする。そしてフィリップは、かつてパリで出会った詩人のクロンショーが贈ってくれたペルシャ絨毯の切れ端について考える。それは、「人生の意味とは何か」というフィリップの問いの答えとして、クロンショーが贈ってくれたものなのだった。(下巻)

 本書を紹介するにあたって、まず翻訳について述べておきたい。

 今回参照しているのは、中野好夫による新潮文庫の旧訳だ。新潮文庫からは2021年に金原瑞人による新訳が出ており、つづけて2022年には光文社の古典新訳文庫にて、河合祥一郎による訳が出ている。特に、後者については原書のタイトル”Of Human Bondage”を「人間のしがらみ」と訳しており、その意味するところも、中野好夫訳を読んだ時点で、私には理解できた気がしている。

 よって、これらの訳文をそれぞれ読み、少しばかりの比較と考察をするところまで、本記事の射程に入れているが、現段階では新潮の旧訳をベースに、レビューをしていきたいと思う。

二人の女、ミルドレッドとサリー

 両親を失う幼年期から、絵画の道をあきらめて医学を志すまでの時期は、フィリップの人格や思想を理解するうえでは非常に重要だ。一方で、フィリップにとってはまだ本当の意味で人生が始まっていない、魂の幼年期という印象も受ける。

 彼なりに失敗し、傷つき、苦悩しながら道を探ってゆくのだが、自分の選択に対し本当に責任をもつということは、まだ知らないように見える。

 何でもかんでも、最後には「もういやでいやでたまらないんです」の一言を残して止してしまう飽きっぽさ、堪え性のなさ。年上の女性と付き合うが、ロンドンへ行くついでに自然消滅ということにしてしまったりもする。そしてまた、気取った持論を展開する年長のインテリに心酔したり、やがてはその彼を見下したりするだけの若さ、言ってしまえば青さもある。

 そんなフィリップを虜にする女ミルドレッドは、描写を読む限り、容姿はそこそこ美しいのだが、痩せぎすで、傲慢で、人を人とも思わない冷たい女である。その彼女に熱を上げ、親の遺産をポンポン無駄遣いするフィリップに、初めは正直イライラさせられた。

 フィリップにとっての人生は、ミルドレッドという女に出会ってから、いよいよ彼自身のものとして、個人的な痛みの経験として展開してゆくように見える。

 向こうから啖呵を切って離れていき、都合が悪くなると戻ってきて擦り寄るミルドレッド。さっさと縁を切ればよいのに、そんな彼女をどうしても拒絶できないフィリップ。

 何回ひどいめに遭わされたら学習するのかと思った。もちろんミルドレッドとの関係は徐々に変化してゆくし、彼女自身の末路も、あまりにも人を馬鹿にした人間にふさわしいものであるようなのだが、こんなヤツをここまで思いきれないものだろうか。

 しかし後半、アセルニー家の長女サリーが登場してから、ミルドレッドという登場人物に対する捉え方が変わった。

 ミルドレッドが人間の、女の姿をしているから、フィリップの馬鹿な恋を馬鹿だと笑えたのだ。冷たく傲慢、たびたびひどい仕打ちをするばかりで、一向に振り向いてくれぬ何かに焦がれつづけることなど、人生でいくらもあるだろう。ミルドレッドはおそらく、フィリップの人生、前半生そのものなのだ。

 サリーはといえば、ミルドレッドとは対照的に、豊かで健康な体つき、健全でしっかりした魂と、逞しい生活力を備えた娘である。気が利いて可愛らしいが、しっかり者だ。傷つきながらもさまざまな経験を糧に成長してきたフィリップは、やっとこうした女性にふさわしい人間になれたのかもしれない。

 なぜ自分などのことを好いてくれるのかと尋ねたフィリップに、サリーはこう答えてくれる。

そうねえ、あなたが、ほら、憶えていらっしゃる? 野宿して、なんにも食べてないっていっていらした時ね、あの時から、好きになったように思うわ。それで、あたしと母さんとで、ソーピーのベッドに寝かせて上げた。

モーム「人間の絆(下巻)」中野好夫訳、新潮文庫

 サリーこそは、振り向いてくれたミルドレッドだ。豊かさと慈愛とを兼ね備えたフィリップの後半生。人生の意義という問いに対して、ひとつの答えにたどりついた彼に与えられた至宝である。おそらくミルドレッドとサリーの対比の最たるものは(サリーの上記の台詞にも表れているとおり)「母性」なのだが、それこそ、フィリップが彼の人生において初めに失くしたものなのだ。

クロンショーの絨毯

 芸術への挫折に終わる、魂の幼年期の終盤に投げかけられた一つの問い。人生の意義とはいったい何か? これに対し、荒廃した人生を営む詩人クロンショーが「答え」として贈ってよこしたのが、パリで共に見たペルシャ絨毯の切れ端であった。

 そして、恋に傷つき破れ、多くを失い、不自由な足で百貨店の案内に立つ日々の中で、フィリップがたどりつく答え。それこそが本書のひとつのクライマックスであり、核心的な部分でもある。

 ここに引くことは敢えてしないが、私個人にとっていえば、これほど大きな慰めとなる言葉もなかった。それでも消しきれない一抹の不安と共に、この答えを携えて生きていきたいと思うような。

 「月と六ペンス」をまだ読んでいないものの、こんなに長篇でなかったら、「新潮文庫の100冊」あたりに入って、思春期の若者たちに推薦されたのではないかと思うのだが……むしろ、このころのフィリップと同じく三十も近くなってからの方が、味わい深いものなのかもしれない。

訳文について

 中野好夫訳が刊行されたのは1950年から1952年にかけて。70年ほども前である。格調高く、時代の雰囲気が香る名訳だと思う。

 中途半端なインテリの友人ヘイウォードが、知人ウィークスを評して曰く――「要するに、彼奴は、衒学の徒にすぎん。美に対する、真の感覚なんてものは、全然ないんだ。正確なんてことは、書記ならば、賞められようがね」

 フィリップの叔父からキングズ・スクール校長へ宛てた手紙――「迂生甥(うせいおい)の件に就き、再度御心労を煩(わずらわ)し、誠に恐縮に存上候共(そうらえども)、何分当方両人と致候而も、本人の身上に関しては、誠に心痛罷(まかり)在候次第、何卒御宥恕被下度(なにとぞごゆうじょくだされたく)願上候」

 普段は上品ぶっているミルドレッドの口調――「朝から晩まで、あんな裸の画、眺めてるの、あたし好きだとでも、お思いになって?」

 ましてや、オリジナルが1915年の発表ということを考えると、古い訳というものはないと思う。一方、教養の低い私などには少し読みにくい箇所もある。

 「接吻」や「葡萄酒」などは古めかしい言い回しとして今日も市民権を得ていると思うが、「ミーチャンハーチャン」や「七里ケッパイ」、また当時の読者に配慮したと思われる「餡パン」が実際のところ何を指しているかなどは、そろそろ注釈の必要な読者も多いかもしれない。このところ立て続けに新訳が発表されているのも、そろそろ最近の読み手のニーズに応じてということではないかと思う。

 といったことを踏まえつつも、あまりにも美しく、好きなくだりがあるので、今後、新訳との比較箇所にもしたいと思い、少し長いがここに引用する。アセルニーに、エル・グレコがトレドーの市を描いたという絵の写真を見せてもらったフィリップの感慨からの抜粋だ。

彼は、アセルニーが、この画は実に正確であって、もしこれをトレドーの市民たちが見れば、一々自分の家がわかるはずだ、と言っているのを聞いた。つまり、作者は、まさに見たままを描いたのだ。だが、ただ彼は、心の眼で見ていたのだった。薄墨色に浮かぶその市には、なにかこの世ならぬものが漂っている。夜の光でもない、昼の光でもない、ある薄明の光によって見られた魂の都なのだった。市は、緑の丘に立っている。だが、それは、この世の緑ではない。またそれは、巨大な城壁と稜堡によってめぐらされている。それらは、人の発明した機械や兵器によっては、決して破れない、ただ祈りと断食、悔いの嘆息と肉体の苦行によってのみ、破られうるのだ。これこそは、神の城塞(とりで)。あの灰色の家々は、決して世の石工たちの知る石で、できたのではない。

モーム「人間の絆(下巻)」中野好夫訳、新潮文庫

 信仰にも、芸術にも破れたフィリップ。だが、人生とはまさに、この「ある薄明の光によって見られた魂の都」なのではないかと、私は思うのだ。彼はきっとそこに、ひとつの家を、幸福の城塞を築くことだろう。

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