現実の味は、しばしば空想や思い出のなかのそれを超えることができないもの。
大切に抱えつづけていた夢の味ならなおのことでしょう。
古典を翻案したといわれる芥川龍之介の短篇「芋粥」より、憧れと幻滅の逸品をご紹介します。
最後に、その山の芋が、一つも長筵の上に見えなくなつた時に、芋のにほひと、甘葛のにほひとを含んだ、幾道かの湯気の柱が、蓬々然として、釜の中から、晴れた朝の空へ、舞上つて行くのを見た。
ときは平安時代、主人公は風采のあがらない小役人で、作中ではただ『五位』と呼称されています。
見た目も才覚もぱっとせず、おとなしい性格ゆえに同僚たちからさんざんコケにされている五位。悪戯のレベルを明らかに超えた嫌がらせをされても、臆病な性格の彼は「いけぬのう、お身たちは」と弱々しく呟くのが関の山でした。
今日の一皿「芋粥」
そんな彼にも、ひとつの夢がありました。
それは、『芋粥』を飽きるほど食べてみたいというもの。
芋粥とは「山の芋を中に切込んで、それを甘葛の汁で煮た、粥の事」と作中にはありますが、甘いとろろみたいな感じなのでしょうか。なかなか想像しづらいですが、五位にとってはめったに食べられない憧れの味であり、ただひとつの執着、欲望の対象なのでした。
ある日、芋粥をほんの僅か口にすることができた五位は思わず、「いつになったらこれに飽きることができるだろうか」という心の声を口に出してしまいます。
それを耳にした豪族・藤原利仁が、飽きるほど食べさせてやろうと持ちかけるのですが……。
たかが芋粥、されど芋粥。
何度読んでもつらい話です。
めったに口に入らないからこそ、憧れと欲望を胸のなかで煮詰め、大切に抱えこんでいられた五位。
それが他人の手で、いとも容易く大量に用意され、「さあ飽きるほど食べていいぞ」と言われる。これは夢の実現ではなく、破壊にほかなりません。なみなみとつがれた芋粥を前に、五位が食欲をなくしたのも道理と言えましょう。
唯一の救いであり、個人的に強く印象に残っているのは、作中に登場する名前のない人物。
はじめは同僚と一緒になって五位をからかった彼ですが、「いけぬのう、お身たちは」と弱々しい抵抗にあってから、五位のなかに一人の『人間』を見いだすようになる。相対的に、世の中が下等に思えてくる。
この人物については、現代的な倫理が人のかたちをとり、作中唯一の良心として現れたような印象を持ちました。
飽いてみたいけれど、それは、飽いてしまいたくはないということ。
そんな矛盾をはらんだ憧れの味に、私も覚えがある気がしています。 『芋粥』を失ったあと、五位がどんなふうに生きていくのか、他人事でない思いです。

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