小留知先生のイラクサのスープ―堀江敏幸「イラクサの庭」(『雪沼とその周辺』)より

今日の一皿
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 誰かの抱えた痛みの気配にふれるのは、このスープを味わうようなものなのかもしれません。

 堀江敏幸の短篇小説「イラクサの庭」より、複雑な味のするイラクサのスープをご紹介します。

つくり方はじつに簡単だった。若いイラクサを摘んで葉をむしり、賽の目に切ったジャガイモ、たまねぎといっしょに三十分ほど煮込み、ミキサーにかける。鍋に戻して塩、胡椒で味をととのえ、仕あげに生クリームをくわえる。実山さんは、このとき生まれてはじめて外国製のミキサーを見たのだった。味のほうは、おいしいといえばおいしい、そうでないといえばそうでないとしか言えなかった。草の匂いがぷんと鼻について苦みと酸味のわりあいが一定せず、口に入れるたびに舌の表と裏で刺激がくるくる変化するような感覚だった。

 「小留知(おるち)先生」は若い頃にフランス料理を学び、「雪沼」と呼ばれる地域で料理教室とレストランを営んできた女性です。もともとは東京の外れから移住してきたのですが、料理教室の生徒さんやご近所さんにも慕われ、すっかり地域に根づいて長年暮らしてきました。

 そんな彼女が体調を崩してあっという間にこの世を去ってしまったのが数日前のこと。物語は、彼女に縁のあった人びとがしみじみと語り合う場面から始まります。

 語り手の実山さんは、もともとは料理教室の生徒でしたが、徐々に小留知先生のアシスタントのような立場となって彼女の晩年を支えてきました。ついには臨終にも立ち会った実山さんですが、先生の最期の言葉をうまく聴きとれなかったことを気に病んでいます。

 「コリザ」。

 先生はそう言ったように聞こえたのですが、果たして「コリザ」とは?

 思い出話に花を咲かせるうち、小留知先生が蔵書の一冊のある部分に下線をひいていたことを知った実山さん。一見何の変哲もない描写に、なぜ先生は惹きつけられたのか。

 考えをめぐらせた実山さんは次の瞬間、「コリザ」の正体に思い至るのでした。

今日の一皿「イラクサのスープ」

 堀江敏幸が描く「雪沼」の空気はひんやりと澄んでいて、どこか秘密の匂いがします。

 本作に登場する「イラクサのスープ」は、その象徴のように感じられました。

 今際の言葉「コリザ」、そしてイラクサに囲まれた庭の中に小留知先生が抱えつづけていた、胸をえぐられるようなある秘密。

 敬愛する先生の分身ともいえる料理でありながら、実山さんがどうしても受けつけられなかったその味は、読んでいるこちらの舌にまで、ヒリヒリとした痛みを伴って伝わってくるようです。

 静かな夜、スープの湯気の向こう側に、誰にも言えない秘密を隠し持っている人にこそ、この一冊を手に取ってほしいと思いました。

堀江敏幸『雪沼とその周辺』について

 本作は短篇集『雪沼とその周辺』に収録されています。表題のとおり、雪沼と呼ばれる地域に暮らす人びとを描く8作品がおさめられています。

 雪沼の人びとは、言ってみればどこにでもいる普通の人たちですが、物語は紋切り型の解釈を許さず、彼らの人間としての深淵、断層が顔をのぞかせる瞬間を緊迫感と共に捉えています。静謐さと、厳しくも優しいまなざしを感じる筆致です。

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